血管分子生理学教室(旧生理学第一講座)
金沢大学大学院 医学系研究科 循環医科学専攻
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生理学第1講座史
本学で生理学の授業が始めて行われたのは1870(明治3)年、金沢医学館の時期でありました。爾来、学校の名称は、金沢医学所、金沢医学校、石川県甲種医学校、第四高等学校医学部、金沢医学専門学校、金沢医科大学と変ったが、当時のほとんどで生理学の授業時間数は年間200余時間におよび、今日のそれに比して大差がないことは一驚に値します。
1923(大正12)年12月に上野一晴教授が小立野の金沢医科大学の生理学担当教授として赴任しました。翌1924年9月には生理学教室が竣工し、ここに上野教授の指導によって本格的な実験生理学の灯が金沢に点じられました。しかし、上野教授は1947年暮より病床につき、1947(昭和22年)3月7日逝去されました。上野教授亡きあと、大井成之助教授が教室主任となりました。
国立学校設置法の公布により金沢医科大学が金沢大学医学部になって間もない1949(昭和24)年6月、当時長崎医科大学教授の齋藤幸一郎先生が当教室の主任教授に就任しました。1954(昭和29)年には大学院設置の機運が熟し、同年12月1日、新設の第二生理学教室の初代教授として、東北大学助教授岩間吉也博士を迎えました。かくして、従来の生理学教室は第一生理学教室と呼び、植物性機能に関する生理学の講義と実習を担当することになりました。1968(昭和43)年10月には医学部校舎の改築が完了し、第一生理学教室も現在の医学部基礎南棟3階に移転しました。
1973(昭和48)年3月に齋藤教授が停年退職し、しばらく本田良行助教授を講座主任として教室の運営が行われましたが、1974(昭和49)年3月本田助教授の千葉大学教授就任にともない、同年10月に名古屋大学環境医学研究所から永坂鉄夫教授が第3代教授として就任しました。平成10年3月に永坂教授が定年退職した後、平成11年1月より多久和 陽教授が第4代教授として就任し、現在に至っています。
上野教授以降の歴代教授の略歴および当時の教室業績は以下のごとくです。
初代 上野 一晴 教授
1893(明治26)年3月19日、熊木県八代町生まれ。1918(大正7)年12月東大医学部を卒業、直ちに同大学生理学教室永井潜教授の門に入りました。1920年より欧州諸国に留学、主として英国のラングレー教授のもとで研究を重ね、1923年10月帰国、直ちに金沢医大へ赴任しました。着任早々、金沢医学会(1923年12月)において、「ニコチンによる蛙筋の収縮とクレアチン生成について」と題して英国留学中の研究業績を発表していますが、恐らくこれは就任演説であったのでしょう。上野教授自身の著述としては、人体の科学(昭和6年)、生理学(同8年)、最新小生理学(同15年)、解説医学用羅典語集(同26年)があります。羅典語集は教授の死後出版されたものです。教授は1948(昭和23)年3月7日金沢医大付属病院で胃癌のため死去されました。享年54才。
上野教授時代の研究業績を通覧すると、研究は幾つかの系統に分かれますが、そのうち最も重要なものは、20ヶ年にわたり継続された心臓に関する研究です。取扱われたテーマは刺激伝導系の機能とその回復、これらに対する自律神経、諸種薬物やイオンの作用に関するもので、研究資料には各種の温血、冷血動物の心臓が用いられ心拍数の機転に関する詳細な実験的検討が加えられました。また心電図に関する研究もケンブリッジ製心電計を駆使して早くより着手され、心臓各部の心電図についての新知見が挙げられました。1932年より1938年にかけて各種神経に含まれる神経繊維の太さに関する統計学的研究、神経の太さとその機能の関係についての研究が報告されています。その他、上野教授着任当初の研究として、血管反射、呼吸機能、血圧、蛙蟇の皮膚色素、腎灌流実験、骨格筋の仕事などの研究が行なわれ、第二次世界大戦中から戦後にかけて心臓内神経、神経終末における液性伝導、筋組織に対するアセチルコリンおよびニコチンの作用などの研究が報告されています。第12回日本生理学会大会が1932(昭和8)年7月、上野教授の当番幹事の下に金沢市にて開催されました。出演総数206、参加者数約200名でした。
第2代 齋藤 幸一郎 教授
岡川県出身。1908(明治41)年3月21日生れ。1931(昭和6)年京大医学部を卒業し、直ちに同大学生理学教室第1講座に入り、正路倫之助教授の下で血液、呼吸の生理学を修めました。その後陸軍技師、京大付属臨時医学専門部教授、山口県立医専教授、長崎医大教授を歴任し、1949(昭和24)年6月30日、上野教授の後任として、当第1生理学教室教授に就任しました。その後20余年にわたり、生理学発展に寄与したが、1973(昭和48)年定年退職されました。齋藤教授は1994(平成6)年12月11日心不全のため死去されました。享年86才。
齋藤教授時代の研究業績は、1949年より1953年にかけて、疲労判定法としてのドナジオ反応陽性物質の本態とその排泄機転に関する研究を行ない、その疲労判定法としての価値を批判しました。また麻酔薬の心臓機能に及ぼす影響、赤血球浮遊液のカタラーゼ能、カタラーゼの不能動化と再能動化、赤血球浸透抵抗などの研究があります。その後、酸塩基平衡の研究に着手し、血液、保存液、赤血球内容の酸塩基平衡、腎の酸塩基平衡調節能などの研究が行なわれました。1955年頃微量血液用ガラス電極と循環動脈血用ガラス電極の試作に成功し、これを用いて、呼吸の化学的調節作用の解析にある程度の成功をおさめました。その後、更に低体温下における呼吸機能に関する研究をすすめました。
一方、1958年頃より遠心限外濾過法を考案し、これを用いて血液中における蛋白質とカルシュウム、パラアミノ馬尿酸、色素、クロール、およびロダンなどの結合を研究し、また、本法を用いて血色素と炭酸の結合を研究しました。更に、体液酸塩基平衡、呼吸調節の中枢における相互作用の問題、意識の関与、更には種の相違などの問題につき検討を加えました。
1958(昭和33)年5月、第35回日本生理学会大会が、齋藤、岩間両教授当番幹事の下に金沢市において開催されました。出題総数402、参加者は約800名の盛況でありました。
第3代 永坂 鉄夫 教授
1932(昭和7)年10月26日生まれ。愛知県碧南市出身。1957(昭和32)年3月名古屋大学医学部卒業、翌年5月から助手として同大学医学部第1生理学講座の高木健太郎教授に師事し、皮膚循環、体温調節の研究に従事しました。1962年8月から2年間米国ケンタッキー大学で、1968年7月から1年2ヶ月間カリフォルニア大学デービス校で、ともにL.D.カールソン教授の下で体温調節の研究を行いました。この間、1965年10月から3ヶ月間高所医学研究のため、チリ、アルゼンチンに出張しました。1968年2月から名古屋大学環境医学研究所航空医学部門助教授、1974(昭和49)年10月当第1生理学教室教授に就任し、1998(平成10年)3月定年退職されました。
永坂教授になってからの研究は、体温調節とエネルギー出納、低酸素や無重力の自律機能に及ぼす影響と適応、運動時の代謝と末梢循環など環境生理学特に温熱生理学的色彩が濃いです。それらの研究を時代を追って大別すると概ね以下のごとくになります。1、試作した動物用直接熱量計を用いた、温熱その他の環境適応によるエネルギー代謝、熱出納、体温調節機序の変容、2、暑熱環境時あるいは運動時のヒトの皮膚血管反応、選択的脳冷却機構の解明、3、体温調節機構、生物リズム等についての比較生理学。動物用直接熱量計を用いた研究は我が国の生理学界では唯一のものであり、現在も紫藤治助教授を中心に小動物をモデルとして暑熱適応解明のための研究を行っています。高体温時に、手足を更に高い温度に暴露するとその部の皮膚血管が収縮します。当教室で初めて見つけられた現象で、高体温時に外部から体内への熱移動を遮断する合目的反応であると考えられます。この反応を温熱皮膚血管収縮と名付け、その機序の解明を行いました。ヒトでも高体温時に選択的に脳が冷却される必要がありますが、それには顔面、頭皮で冷却された静脈血の頭蓋内への流入が重要であり、その機序についての解明を行いました。毎日決まった時間に温熱刺激を繰り返し与えられた動物では、実際に温熱刺激がなくともかつて暑熱暴露を受けた時間に同じ体温調節反応が惹起されることを見い出し、この現象を手がかりとし、温度馴化の中枢機序を探った。 この研究は現在も紫藤助教授を中心に続けています。
この間、1981(昭和56)年11月には第27回日本宇宙航空環境医学会総会を、また1983年10月には第22回日本生気象学会総会を主催しました。1990(平成2)年4月からは日本生気象学会の会長として学会の会務を統括しました。また、1998(平成10)年3月に第75回日本生理学会大会が、永坂教授と東田陽博、加藤聖の両神経情報施設教授の当番幹事の下に金沢市において開催されました。
第4代
多久和 陽 教授
1954(昭和29年)10月23日生まれ。島根県出身。1979(昭和54年)3月東京大学医学部卒業。1984年(昭和59年)より、東京大学医学部第四内科助手を務め、1985年(昭和60年)1月より、米国エール大学に留学、平滑筋の収縮・弛緩を制御する細胞内情報伝達機構の研究に着手しました。1987年(昭和62年)9月に帰国後、筑波大学内科講師に就任した後も細胞内情報伝達の研究を発展させ、1991年(平成3年)より東京大学脈管病態生理助教授を経て、1999(平成11)年1月に当第一生理学教授に就任しました。
多久和先生を迎え、第一生理では、分子生物学的・発生工学的手法を用いた、主として心血管系における細胞間および細胞内情報伝達機構の解明を主たるテーマとし、研究を進めて行こうとはりきっております。
研究内容の紹介